土用の丑の日にうなぎを食す文化

2021/07/28

今年も土用のうなぎの日がやってまいりましたが、日本人は何故、毎年夏の土用丑の日にうなぎを食すようになったのでしょうか。

土用というのは立夏、立秋、立冬、立春とあり、すべてに丑の日があります。昔は日にちを十二支で数えておりましたので土用の丑の日は令和3年7月28日以外に5日間ある事になります。

江戸時代、讃岐国に白石茂左衛門の三男として生まれた平賀源内(四方吉)。

四方吉は幼少期に父茂左衛門からご先祖様の平賀三郎国綱や武田信玄と闘った信濃国の武将平賀入道源心の話を聞きます。陸奥国、出羽国に勢力を持った大名伊達氏に仕えるようになった源心の子孫が姓を平賀から白石に        変えた事や、その後源心が伊達政宗公の長男秀宗公に仕え伊予国宇和島で騙され武士の身分を奪われ讃岐国に     流された事など…

そのような話を聞いた四方吉は立派な武士になりたいと言いました。そして父茂左衛門は学問に励めと         言いました。四方吉は当時、武士の学問の基礎である儒学や本草学などを熱心に学んだという事です。

やがて父茂左衛門が亡くなりました、兄二人は幼くして亡くなっていたため四方吉は母に、自分が父の跡を継ぐと決心をしたといいます。そしてこの時から平賀の姓を名乗ったと言われております。
その後父の仕事であった高松藩の蔵番を継ぐかたわら学問に励んでいたある日、本草学に熱心な源内の姿が      藩主松平頼恭の目にとまり、藩の薬草園で働くようになりました。
その後、源内は高松の医師久保桑閑を長崎に誘い、共に長崎の地を踏みました。
ここで初めて西洋画(油絵)や地球儀、顕微鏡など初めて異国の文化に触れたそうです。長崎での約一年の遊学が   終わり、故郷に帰った源内は讃岐国の生活には満足できず、高松城にて「病のためこれ以上薬草園の仕事はできませぬ」と嘘をつき江戸へ旅立ちます。

江戸に着いた源内は本草学の第一人者、田村藍水を訪ねました。その後、紆余曲折ありエレキテル、火浣布、タルモメイトル、小説、陶芸、すべてが新しく人々を驚かせましたが、活動の多くは実を結びませんでした。その後、あまりに多方面で活躍する源内に世間の人々は理解できなくなってゆき、町では悪口をいう人まででてきたという事です。源内が亡くなる一年前に残した句には「世の中のためになる仕事ができず名ばかりが有名になって一年がまた終わろうと仕している」と…最後、錯乱した源内は誤って人を斬ってしまい獄中で病死したという事です。

源内の良き理解者であった杉田玄白は、友人であった源内の墓を浅草の総泉寺に建て「非常の人、非常のことをこのみ行い、これ非常、なんぞこれ非常」と拝んだそうです。
その時代に理解されない天才という意味では種痘法を開発したエドワード・ジェンナーと重なる部分があると思いました。平賀源内の名が世に知れ渡るのは、ずっと後の事です。

お話をうなぎに戻したいと思います、江戸時代夏場にまったく売れずに困っていたうなぎ屋をどうにか助けようと    「土用の丑の日はうなぎの日」と宣伝したのが平賀源内であったという事ですが、本当にあらゆる分野に        手を出した科学者であったと思いました。

※うなぎの産卵期は冬なので一番美味しいのは脂の乗った産卵前、秋から冬だそうです。



 

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